聞こえるはずのない旋律。
思い出せないはずの記憶。
その違和感は、やがて取り返しのつかない恐怖に変わる――。
小説『歌詞カードがとどくまで 〜名前を返せ〜』第一巻、試し読み無料公開。

表紙イラスト:『歌詞カードがとどくまで 〜名前を返せ〜』第一巻
【第1巻】
1話「風を入れよう」
目覚ましが鳴るより早く、目が覚めた。
シーツにまとわりつく湿気と体温が嫌に重く、息を吸っても空気がどこか淀んでいて、胸の奥にのしかかる。額に張りついた髪が汗でじっとり濡れていて、まるで夜のあいだに部屋ごと蒸し上げられたみたいだった。
のろのろと起き上がり、玄関へ。ドアノブに触れた瞬間、金属の冷たさが一瞬の救いのように指先に伝わった。
ドアを押し開けると、集合住宅の廊下には昨日の熱気がまだ閉じ込められていた。コンクリートの壁や床からはじわじわと熱が放たれ、吸い込む空気はぬるくて重い。
郵便受けを開けると、かさりと音を立てて一通の封筒が落ちた。
真っ白で宛名も差出人もない。拾い上げた瞬間、その白さが朝の光を跳ね返して眩しく感じた。
部屋に戻って封を切る。中にはカードが一枚。インクのにじみ方からして印刷ではなく、手書きのようにも思える。
「窓を開けて 風を入れよう」
たった一行。
その言葉を読んだとき、部屋の空気の重さを改めて意識した。カーテンはしんなりと垂れ下がり、机の上のマグカップからは昨日のコーヒーの酸っぱい匂いが漂っている。
僕は窓の鍵に手をかけ、ほんの少しだけためらった。
「もし開けなかったらどうなるだろう」と考える。
閉じ切ったまま、この空気を吸いながら一日を始めてしまったら、きっと何もする気が起きないだろう。
がらりと窓を開ける。
ひゅうっと風が流れ込み、カーテンが大きく膨らんだ。頬を撫でる風は想像以上に冷たく、汗ばんだ肌をさらりと乾かした。肩にのしかかっていたものが、外へと押し出されていく感覚。
「……悪くない朝だな」
声に出した瞬間、胸の奥に小さな空洞ができ、そこに新しい空気が満ちていく気がした。
窓辺に立つと、通りを歩く人々の足音が風に混ざり、かすかに部屋まで届いてきた。
夜、布団に入ってもその風の感触は残っていた。頬を撫でた冷たさを思い出しながら、僕は静かに目を閉じた。
2話「冷たい水」
二日目の朝。
ポストを開けると、昨日と同じ白い封筒が落ちた。触れると、ほんのり冷たい。朝の廊下の空気よりも、紙の方が冷えているように感じられた。
部屋に戻り、封を切る。
カードにはこう書かれていた。
「冷たい水は 喉の奥で目を覚ます」
その言葉を読んだとき、ちょうど机の上のペットボトルを思い出した。昨日の帰りにコンビニで買ったものだ。
キャップをひねり、一口飲む。冷たい水が舌を通り、喉を滑り落ちて胸の奥に広がる。眠気が溶け、頭が冴える。
「偶然かな」
思わず笑ってみる。
声は小さく、部屋の静けさにすぐ吸い込まれた。
窓辺に立って水を掲げると、透明な中に朝の光が差し込み、きらきらと揺れた。
昼、外に出ると、陽射しは強いのに、さっき飲んだ水の感覚がまだ喉に残っていた。冷たさが体の奥に芯のようにあり、歩くたびに目を覚まさせてくれる。
夜になり、布団に横たわってからも、その感触を思い出した。
ただの水なのに、今日の一日を確かに変えた――そう思えた。
3話「笑ってごらん」
三日目の朝。
封筒がポストにあることを、もう疑わなくなっていた。
開けると、カードにはこうあった。
「笑ってごらん 空気がやわらかくなるから」
僕は頬に触れてみた。鏡を見なくても、最近笑っていないことが分かる。
試しに口角を上げてみる。ぎこちなく、顔が引きつっている気がした。
続けていると、頬の奥がじんわり温まり、胸の奥にこびりついた重さが少しずつ剥がれていく。
「本当に空気が変わったのかな」と疑いながらも、体の内側に小さな変化を感じていた。
「……まあ、悪くない」
夜になり、机に並べたカードを眺める。
「風を入れよう」「冷たい水」そして「笑ってごらん」。
声に出して読むと、どれも自分に向けられた短い指示のようで、胸の奥をじんわり刺激した。
昼間のぎこちない笑顔を思い出し、また小さく笑みが漏れた。
4話「終わってない」
四日目。
ポストから取り出した封筒は、昨日までと違ってざらついていた。
中を開けると、カードには手書きの文字があった。
「君はまだ 終わってない」
息が止まる。
その字は僕の字に酷似していた。行の傾き、丸み、余白の取り方。昨日ノートに書いた「もう終わりかもしれない」という言葉と同じ癖だった。
「……どういうこと?」
心臓が早鐘を打つ。誰かが覗いているのか。それとも、これは自分から自分への返事なのか。

だが、不思議と恐怖は薄かった。むしろ「終わってない」という言葉は、背中を押してくれるように思えた。
夜、机にカードを並べてみる。
「風を入れよう」「冷たい水」「笑ってごらん」「君はまだ終わってない」。
順に声に出すと、一つの歌の断片のように響いた。
それが胸の奥で小さなリズムを刻み、眠りにつくまで頭の中で繰り返された。
5話「黙って 奪った」
五日目。
ポストを開けても、今日は何もなかった。
ざわついた気持ちで部屋に戻ると、机の上にカードが置かれていた。誰が置いたのか分からない。鍵は閉めたままだったのに。
カードには、短くこう書かれていた。
「黙って 奪った」
息が詰まる。
それは昨夜、眠る前にノートに落書きした言葉と同じだった。
「……見られてる?」
喉が乾き、声がかすれる。
誰かが侵入したのか。それとも自分自身が知らぬ間に置いたのか。
考えれば考えるほど答えは見つからない。ただ胸の奥で不安が膨らんでいく。
窓を開けると、強い風が吹き込み、カーテンを大きく揺らした。
机の上のカードが舞い上がり、床に散らばる。拾い集めると、紙は少し湿っていて、インクのにじみが強くなっていた。

胸に抱えてカードを重ねる。恐怖と安心がないまぜになり、どちらが本当か分からない。
――ただ一つ確かなこと。
今日も歌詞カードは、そこにある。
【第2巻に続く】
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